世界遺産『屋久島』の登山道の一部が崩落して復旧のめどがたっていない。春の観光シーズンを前に迂回道を設置して対応しようと、地元の観光協会が発表した。
屋久島登山観光情報
テレビニュースを見ていた夫は「突貫作業で崩落箇所を通行可能にして、後は通る人の自己責任にしてしまえばいいさ」などと無責任発言をする。「これは屋久島の山の神の仕業だよ。今までの傍若無人な人間の振る舞いに神の逆鱗が触れたとよ」なんて言ってみたら「そうかもしれん」と夫が即座に同調。まあ、夫にとっては他人事か。
映画『アバター』を観た影響かしら、こんな風に思ったのは。パンドラ星人のネイティリが言った「命のエネルギーはみなつながっている」はとても印象に残った。人も他の生き物も自然の中で生かされている。だから自然に対する畏敬の念を失ってはならないとは、仏教的思想にも似て、また日本古来備わる自然の神の存在に畏敬の念を示すシャーマン的思想とも合い通じるものがあるなと観ながら思った。
映像で造られた自然は人間の想像の産物であるが、実在する自然をモチーフにしたものであろう。映画を観終わった後、私は小さい頃に見た山の風景を思い出した。
我が家の前は大連山とは比較にもならないちっぽけな山ばかりで、集落の住民が所有する個人の土地でもあったため、かつて入山する者は所有者か近所の人か営林署の関係者くらいであった。その山に黄色や白色の「エビネ」が自生する場所があって、初夏になると濃厚な香りとともに見事な風景が広がる。ほんとうに、見事な景色が見られた。小さい頃はよく山に行って(登るというほどの感覚でもない)花を摘んだり、探検を楽しんだりして遊んだもの。自然のなかで遊んだ記憶は小学生時代までで、その後の山の変化には無頓着であったが、70年代に入った頃から山の様子が変わってきた。いつの頃からか、親達が山からエビネを採ってきて裏山に移植していることを知り、ある時、妹が「花も山で見るからきれいなのに、なぜ採ってくるの?」と非難めいて言ったら、母が「そのままにしておくと根こそぎ盗掘されてなくなってしまう、うちの山のものなのだから守るんだ」と言い訳にも似た言い方をしてたのである。たしかに傍若無人の振る舞いが周りに増えてきたと私も感じていた。時代は高度成長期の真っ只中、車を所有する人間が増えてきたことが大きく影響した。
20年くらい前に林道が整備されてから、さらに見慣れない人や車が山中まで入っていくのを見かけるようになった。山菜を根こそぎもぎ取って、ゴミを辺りに散らかしていく。「なぜ、林道なんか作らせたのか?」と今度は私が父親を非難した。「材木の価値が下がって、山を持っているだけでも赤字になる。山を何らかの形で活用しようと思えば、奥まで入っていけるような道路があれば切り出しに都合がいい。お前達に負の遺産を残さないためと考えたからだ」と。
20年前、林道が整備されることが山の価値を上げると誰もが目算した。時が流れて気づいてみれば、ただ自然を荒らすだけで勝手気ままな人間を容易に入れるようにしたうえ、おいしい湧き水の水源は枯れ、希少植物は姿を消し、代わりにイノシシやシカやサルまでが人里に下りてくるようになったのである。子孫のためにと思って行われた開発事業が、ここに人が住むことを難しくしてしまった。私が小さい頃慣れ親しんだ自然の姿はもう見ることができない。
屋久島も観光で潤う片一方で自然林の損傷はひどく、このままいけば縄文杉も滅びる運命となるやもしれず。過疎地の衰退を食い止めるために考えついた観光であり、ダム建設や基地・原発の誘致だったのだろうが、引き換えにされた自然破壊は取り返しのつかない形でツケが未来に先送りされている。私の親にそんな意図はなかったと思う。しかし、パンドラの世界から見たら、自然の侵略者・破壊者の立場と重なって見えるはず。
「命のエネルギーはみなどこかでつながっている」重く響く言葉だ。映画は侵略者と先住民の闘いという構図だったが、酸素マスクがなければ生きていけない星で「何かとつながって生かされている」と気づかない地球人たちの愚かさを皮肉っているようにも思えた。
現実社会に引き戻され、人工的な物質に取り囲まれて生きている日々の生活を振り返り、こんな生き方が未来永劫人類に保証されているとも思えず、うつ状態にはならずとも先を案じて気分は重くなる。映像が訴えたテーマからすれば、華やかなアカデミー賞の舞台でさえパンドラの世界とは真逆に存在するものではないかと、これも皮肉に思える。やっぱり映画は映画でしかない・・・か?






